読書はしご

読書雑多文。

「万能鑑定士Qの事件簿Ⅴ」

 

 唐突にフランスへGO!にちょっと違和感を持ちましたが、「鑑定業を名乗る以上は下術を見る目も育てないと…だからパリに行きたかった」という理由づけ。

勝手に芸術好きはイタリアに行くのかと思ったら、そうでもないのかなぁ。

滞在日数の割に全然旅行していないのに、ルーブル美術館オルセー美術館だけで満足してるの莉子らしい。

でも近いんだから、オランジュリー美術館ぐらいには行ってもいいのにー。

あと、美術好きとして、モナリザに行くまでの西洋画の質の高さとサモトラケのニケ前後の彫刻群にビビらずに、直行できるのは、ちょっとなぁと思います。

あくまで鑑定家であって、美術好きではないのかなぁと思ってちょっと残念な気持ちになりました。

 

閑話休題以降ネタバレを含みます。

 

パリのレストランとフォアグラ、これだけで何が争点かはなんとなく予想できる。

が、犯人はちょっとわかりませんでした。

てっきりピンチヒッター的にフォアグラを提供したコタヴォさんかと思ってましたが、単に騙されやすい骨董好きさんになってて、最後まで和ませてくれましたね。

最初は同級生の楚辺との恋愛関係に発展するのかと思ってたんですが。

莉子と楚辺を巡って三角関係勃発かなーと。

しかし、そうならない以上、犯人役しかなかったわけです。

よく親子との対立が犯人の動機ですが、若く感受性が高く、フォアグラにされるしかない鴨に同情する思春期に思い詰めすぎたこと、作中で詳細は語られなかったものの、男運がなかったことが、偏った価値観と犯行に及ばせてしまった原因と思えます。

でも、人に迷惑をかけたら駄目ですね。

偶然死人が出なかったものの、体が弱い老人や子供なら死んでいたかもしれないし。

あと、この娘の父親が、娘に愛情注いでいないとは思えません。

フォアグラを残酷と思いながら、それを作る父親に言えないというのは、ある意味卑怯だなと思います。

それでも、やはり本シリーズとの特徴である莉子と犯人との対話のシーン。

相変わらず胸にぐっとくる。

なんと犯人自ら、自分の主張と論理が一貫していない、ただの捌け口として利用していたことに気付くのが、何ともフィクションではありますが、これが本作のいいところであります。

 

 

 あと今回は、波照間島の人々の登場が多かったですね。

両親が上京してくるのは大袈裟すぎるし、いくら恩師でも異性の教師を同行させる親ってどうなんでしょう?

楚辺君も真面目で良かったですね。なんか真面目なだけで、個性が薄い気もするけど。

そして本作はやっぱり喜屋武先生!!

名前が憶えづらい…!!

ではなくて、序盤は「なんだこの熱血教師、ちょっとうざい」と思わせ、海外に行ってもしばらく邪魔だなと感じさせながらの、「先生も用事が…」と抜けてからの人間臭さ!

かつてプラトニックな恋愛をしていた教え子との再会はうら寂しいこと…かーらーの、ほっと和ませ役として、子供をあやしたり、船上

卒業証書授与のシーンはうるうる来ました。正直、先生邪魔だなと思ってたんですが、自分の用事や文房具手配や、なんやかんや一緒に行って良かったね!

「日本人にとって美しさとは何か」

 

日本人にとって美しさとは何か (単行本)

日本人にとって美しさとは何か (単行本)

 

外国人が多く日本を訪れる昨今、日本のメディアにおいても日本再考・再発見といったものが多い昨今。

やはり島国日本であるが故に、いわゆる「Only In Japan」と揶揄されるように独特な文化が根付いているのは否定できないのか。

他国に比べると弱い国際交流の中で、取捨選択をしながら日本文化は形づくられてきた。そのなかで、しなやかに残り続ける日本人らしさというものもやはりあるに違いないが、それってどんなんよ実際とも思う。

まず、比較しやすく、現代でも残っていて、比較しやすいのは美術であると思う。

そこで本書、「日本人にとって美しさとは何か」である。

地元倉敷図書館であったためか、すぐ近くにある大原美術館の館長さんの本だった。 これは面白いだろうな、と借りたら、大変面白かった。

 

古今和歌集「序文」

やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をなぐさむるは、うたなり。

                (『古今和歌集』仮名序、笠間書院

この序文はざっくり言うと「日本人は貧富を問わず、だれでも、人の心を種として、さまざまな言葉を、詠をよむ。歌を詠めば雨も止み、天地が動く。神も武人も心を慰めている」みたいな意味です。

これが西洋では詩は詩人しか読まないし、神様の世界に人間なんかの歌ごときが、世界を動かすとは考えない、という高階氏の解説が入ります。

あとは、文字と絵を一体と見なして、同じ画に納める、というのも西洋ではない。

まあ、文字と絵を一緒に楽しむのは書の文化のある中国も一緒ですかね。

 

あとは、写実性の高い西洋美術に比べて、日本は写実性が低い。

この理由として、日本は対象を表すことを優先し、平面性と余白の美を多用するから、というのが感心しました。

よく見る洛中洛外図、金色の雲がもやもやかかりながらも、遠近法を用いず、平面的であるが故に、洛南も洛北も建物が同じサイズで人も建物もわかりやすい。

これは本当に目から鱗でした。遠近法で、洛南の建物を書いてしまったら、洛北の金閣寺なんて点にしかなりません。

そこで敢えて、雲でごまかしつつ、同じサイズで書く。なるほどー。

書きたい主体を伝えたいんですね。

一方で、尾形光琳の「八橋」。

西洋美術だと、八橋の杜若も、空も、湖もすべてを写実的に描かなければならない。

一方、日本美術だと「伊勢物語在原業平が東下りをするシーンってみんな分かっている。描きたいのはシーンを象徴する杜若。杜若を描けば『唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思う』歌が当然思い出されるし、前後の話も思い出すから、もう杜若と橋しか描かない。業平も従者もいらん。場合よっては、橋さえもいらない」とどんどん切り捨てていく。

 

なるほどなるほど違うなぁ。

他には擬音語とか、日本の名所は季節と一緒に捉えられるとか。

そういった風に日本と西洋の美術を比較し、日本美術における根底を明らかにしようとした本書。

前半は主にアニミズムの精神性が随所に感じられ面白い。

後半は西洋美術の関わりの中で、明治期にどう西洋美術に取り組んでいったのか。また日本画どう変遷していったか。

地元倉敷大原美術館の館長さん執筆で、後半に少し大原氏と児島氏の西洋美術収集も触れられていたりして、楽しかった。

「万能鑑定士Qの事件簿 Ⅳ」

万能鑑定士Qの事件簿IV (角川文庫)

万能鑑定士Qの事件簿IV (角川文庫)

うーん、騙された。
本文前に注釈があれば誰だって騙されるわいー、と思いながら、上手い手法だと感嘆せざるを得ない。

ノストラダムスの大予言」というコレクターが所有する映画ポスターが、一枚、また一枚と焼かれていく。
放火の上、家一軒が焼失する事件もあるが、一枚だけを執念深く焼く犯人。
知能犯?異常犯?
犯人の意図が分からないなかで、コレクターの手元から焼かれていくポスター。

今回の改心劇は犯人と莉子ちゃんの接触時間が長いので、唐突感がない。
後日談もなく、気持ちいい終わり方。
人生の瞬間瞬間に「ふさわしい自分であるために」成長したいという志が素敵。
見習おう。

一方で犯人の犯罪者の親を憎みながらも、遺した遺産を手に入れるために、そして鬼籍に入った親を見返すためにポスターを焼く執念。
虚しく哀しい。
作中であまり描かれていない中で、その心情は推察するに痛ましい。
苗字を呼ばれて親を思い出し、自分が孤児同然の扱いを受ける境遇を苦痛に感じる。
異父弟妹と仲が良くても、救われない気持ち。
この事件で莉子に会えて、犯人と糾弾されず、自分の想いを汲み取った言葉をもらうことで、未来の自分を信じられる。
ちょっと出来すぎだけど、物語だからこそこの結末が良いと思う。

最後の文章が本当に気持ちいい。

蛇行する小道が、マツバギクを敷き詰めた絨毯のような花壇を愛でる機会を、幾度となく与えてくれる。人生もたぶん同じだと莉子は思った。行く手は絶えずうねっている。曲がりくねった道。でもその両脇には花が咲いている。角にさしかかるたびに美しいものに触れられる。遠回りであっても、心は洗われていく。それが成長というものだろう。
わたしもゆっくり道を歩もう。目的地に着いたとき、その瞬間にふさわしい自分であるために。

「18の奇妙な物語 街角の書店」

ハヤカワミステリマガジンのノリで選ばれた「奇妙な味」の短編18篇。
編者の中村融氏のコメントが秀逸。
巻末の作品紹介されている「時の娘」等も借りたくなりました。

まずは太っちょ礼賛の「肥満翼賛倶楽部」でなんだこりゃと思いながらも、「ディケンズを愛した男」で絶望に囚われ、「お告げ」でにっこりしたら、読者はもう本書の虜。
一番は爆笑した「M街七番地の出来事」に。
タイトルから恐ろしい殺人事件かと思ったら、ガム。
男の子がガムを噛み続けて生まれたものに爆笑。
捨てたガムは噛みたくないなぁ。

あと「旅の途中」は是非映像化して欲しい。首が体を求めて、孤軍奮闘するなんていったい誰が思い付くと言うの?

本書は「奇妙な味」というテーマで選ばれた短編集。
江戸川乱歩が造語し、そこから「読後に論理では割りきれない余韻を残す、ミステリともSFとも幻想怪奇小説ともつかない作品」という意味に発展した作風を示す言葉。
確かになんとも言いがたい作品が多い。

「姉の夫」はホラーだけど、切なくて良い。

「ナックルズ」は嘘から真の都市伝説。サンタクロースの対抗軸がいたら?

「試金石」すべすべした石、怖い。店主は悪徳商人め。

「アダム氏の邪悪の園」男性じゃなくても映像化して欲しい。

巻末のあとがきも、編者がどういう意図で(もちろん奇妙な味を追及して)、どういう更正にしたかったかが語られていて楽しい。

「明治・妖モダン」

 

明治・妖モダン

明治・妖モダン

 

 

今までのシリーズとは一線を画す本作品。

なんたってメインの登場人物の正体がよくわからない。

途中からもしかしてーと思い始めて、中盤からだんだん明らかになる。

ここらへんの展開がゆっくりなのと、はっきりしていないので、正直いらいらしましたが、こういう味わいなんだと思います。

作中に何回も出てくる「江戸と明治は地続きなんだ」という言葉にほっとするしゃばけファンも多いでしょう。

せっかくなんで明治だけじゃなく大正・昭和・平成の時代の妖しも物語にしてほしいところ。

 

「赤手の拾い子」

きめちゃんの正体にびっくり。

数刻ですくすく育つ乳児、すわかぐや姫かと思いきや…末恐ろしい。

引き取った人すごい。私には無理だな。

 

「花乃が死ぬまで」

最後の話の滝さんと花乃さんの話はいい感じにまとまってよかった。

滝さんの「骨と灰まで愛おしんであげる」ってのは殺し文句過ぎて、こんな妖しい台詞を言われたら花乃さん止まらなくなるわ…って戦慄しました。

 

ほのぼのした「しゃばけ」シリーズと違って、ちょっと殺伐とした雰囲気なので従来よりは人を選ぶ作品かもしれません。

私はこっちのほうが好きかな。

しかし、牛鍋屋ってそんなに常連がいるものですかね。

今でいう明治の牛鍋屋って超贅沢品、高級ステーキ屋みたいなものでしょう?

安月給の巡査が頻繁に通う店じゃないと思うなぁ。

まぁ、明治モダンさを出したかったんだけど、一銭洋食屋は昭和だっけ?

牛鍋屋はなぁ…。

 

「万能鑑定士Qの事件簿III」

 

 3冊目だけど、1作目の話が上下巻だったので、実質2作目。

こっちが先のほうが良かったんじゃないかな、と思える事件の小ささよ。

本作が先でも良かった気がするけど、戦略的にはインフラのほうが話題性あるしいいのかな。

別シリーズの主人公が出てきたりしてファン向けで良。

同じ世界を共有しているのは好きです。

ファンとしても親しんでいたキャラが出てくるのって、嬉しいですよねー。

ま、その前作知らんけど。気が向いたら読もう。

 

今回の謎の中心人物が誰とは言わないけど、某アーティストを彷彿とさせすぎていて、オリジナリティないのかと思ってマイナス。

更に青春時代の音楽を楽しむ人を「もう今は時代遅れじゃん。だっさ」みたいな雰囲気で包み込まれて、中年の心を刺し殺すのでマイナス。

え、作者だって結構若くないよね?

登場人物だってそんなに若くないし。莉子が思うならまだしも、ですよ。

誰だって10~20代のころが人生で一番音楽にのめり込むし、思い出補正かかるもんじゃないかなぁ。

 

ただ、こいつどうしようもないなクズだわーと思っていた西園寺氏を最後まで見捨てずに、殺される可能性だってゼロじゃないのに、最後まで付き合ってあげる主人公。

ストーリーがどうってことじゃなく、「本当にいい子だなー」と小笠原君状態になったので、作者にしてやられた感があります。

面白さで言うと★★★☆☆ぐらいなんですけど、次回作が楽しみなシリーズだなぁ。